京都の北山から賀茂川に沿って北上し、西加茂橋東詰めに高い竹壁に囲まれた邸宅がある。元の建物を取り払って平地にし、新たに庭と邸宅が造られたが、あまりにも凝りすぎて完成までに要した月日は、8年。その間、京都では持ち主と用途についてのさまざまな噂が流れ続けた。
この邸宅は「AIC秋津洲京都」と名付けられ2年半前に開かれた。茶室に続く東屋を思わせる門の扉は、ほぼ閉まったまま。未だに京都でも、その存在は広くは知られていない。オーナーはオークランドインターナショナルカレッジ(ニュージーランド)や学校法人AICJ鷗州学園AICJ中学・高等学校(広島県)の会長・光田信吾さん。卒業生らが、企業や有志で構成された倶楽部会員とビジネス・プライベート両面で交流できるクラブハウスだ。
扉をくぐると目前に雑木林が広がり、眼下に流れる小川に落ちる滝の水音が聞こえてくる。その奥に母屋が見え隠れし、700坪の敷地に日本の美が詰め込まれていて、人工だからこそ可能な、からくりやこだわりを発見できる。数歩進んでは立ち止まり、その空気や風景を楽しむ「京都のシャングリラ(桃源郷)」だ。
当初は、一日中滞在する倶楽部会員(会員の紹介、婚礼などのパーティーは別途相談)の食事を用意するためにフレンチの上島康二シェフが常駐していた。上島さんはフランスのミシュラン星付きの名店で活躍していたキャリアの持ち主。ほどなく会員から「友人を同伴して食事だけ楽しみたい」、「会員以外はダメ?」という問い合わせが相次ぎ、施設の一部を使い、一般(予約のみ)にも上島さんの料理を開放した。京都なので和食も、という声が上がったが、光田さんは「そのうち」と答えてきた。心に秘めた相手がいたからだ。
2月に館内のバーとして作られたカウンターにオープンする「鮨 熊谷」の熊谷喜彦さんが、その人。静岡県清水市(現在の清水区)の漁港近くで生まれ、中学生の時に近所の鮨屋で見た光景が進路を決めた。隣の人と肩が触れあうくらい狭いカウンターに人が並び、この上なく幸せそうに鮨をほおばっている。待っている人の気忙しく羨ましそうな顔。鮨は、こんなにも人を笑顔にするのか。自分もやってみたい。中学を卒業後、懸命に修行していた10年目に大阪から大手のチェーン店の社長が自ら来て「うまい鮨を食わしてくれると聞いている。大阪に来ないか」と言った。食の都、鮨の名店が並び、舌が肥えた客が厳しく、そして温かい評価をしてくれる街。決心してやってくると、関東とはあまりにも味が違い戸惑った。出汁を飲んだ時に、その旨みに唸った。これが、大阪か。そのチェーン店は大衆から高級まで3つのカテゴリーに店を分けていて、そのすべてを経験し、高級店の店長を任されるようになった。
大阪・北新地の高級店で握っていた14年前の、ある日。
ひとりの男性がカウンターに座った。以前から何度か通ってきてくれる客だ。日本酒を片手に自分の夢を語りだした。「できれば京都に若者育成を目的とした場を作りたいんだけど、完成したら館内に店を出して欲しい。頼むよ」。そういう話は他の人からも幾度となく挨拶代わりに聞いていたが、その時だけは「行かせていただきます」と答え、「もしかしたら、将来、本当に行くかもしれないな」と思った。だから昨年、光田さんから「お待たせしたけど、きてくれますか?」と電話を受けた時、やっとできたのだな、と当然のように感じた。悩まなかったわけではない。大阪は第二の故郷とも思えるほどで、すでに企業での地位や信頼も得ていた。京都の北のはずれで、6席。採算面だけを考えると厳しい。「38年間、鮨を握ってきました。趣味もなく、結婚もせず、鮨が人生そのものだった。その自分が本当にやりたいことは、何か。問い詰めると、美しい山の自然を愛でながら、お客さんと向き合って鮨を食べていただく店をだすことでした。そして海外の方に日本が誇る鮨を食べて欲しい。14年前の約束は、ここにつながった。運命だったんだ。そう思い、お引きうけしました」と熊谷さんは言う。
その門出を多くの人が、それぞれの形で支えた。たとえば、魚は、以前の職場で取引していた大阪の魚卸店が京都まで運んでくれる。時には、朝3時に出向き、横で作業を見て、いっしょに車で店に来ることもある。シャリは長野産のコシヒカリ。これも長年のつきあいである大阪の米屋が「熊谷さんの握る鮨には、これがいいよ。少なくても届けるよ」と言ってくれた。
熊谷さんには独特の握り方がある。普通は5手かかるところ3手で完成。体温がネタに移らず、シャリとネタが合わさる瞬間に生じる生臭みが軽減される。空気を多く含んだシャリは口の中でホロホロと広がる。自分の好きな人の手を握るつもりで鮨を握るから心を込めて一瞬でいい、と言う。昼の「おまかせ握り」は6,000円(9貫・椀物・香の物、税サ別)。夜は「おまかせ握り」8,000円(10貫・椀物・香の物、税サ別)と「おまかせコース」12,000円(5~6貫・おつまみ3~4品、税サ別)。
取材がスタートしてすぐに光田さんは「うちの卒業生は世界中に散って活躍しています。御縁がひろがり、ここが会員同士のいろいろな商談や活動の場にもなりつつあります。日本の将来を背負う若者に、懸命に生きているプロの仕事とはどんなものか。人生の先輩たちと、この鮨を食べてもらって感じて欲しい」とだけ言い、あとは黙って、握りだされた鮨を食べ、日本酒を飲み、幸せそうに笑い、また鮨を食べ、うなずいて笑う、ということを何度も繰り返した。
※AIC秋津洲京都「鮨 熊谷(くまがや)」
〒603-8035 京都市北区上賀茂朝露ケ原町10-55
TEL:075-712-3303 「鮨 熊谷」の休日、開店時間は問い合わせ
http://aic-akitsushima.com/
◆Writing / 澤 有紗
著述家、文化コーディネーター、QOL文化総合研究所(京都市上京区)所長。
京都、文化、芸術、美容、旅や食などなどをテーマに雑誌・企業媒体誌などの編集・執筆を担当するほか、エッセイなどを寄稿。テレビ番組や出版のコーディネート、国内外の企業の京都、滋賀のアテンドも担当。万博の日本館にて「抗加齢と日本食」をテーマに食部門をプロデュースするなど、国内外での文化催事も手掛ける。コンテンツを軸に日本の職人の技や日本食などの日本文化を「経済価値に変える」「維持継承する」ことを目的に、コーディネート活動を行っている。
主催イベントとして、日本文化を考える「Feel ! 日本 -日本を感じよう-」と、自分を見つめ直しQOLを高める「Feel ! 自分-QOL Terakoya Movement ? 」を定期開催。
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